2013年12月07日

週報No.22 11月29日号

ロータリー財団月間

■会長の時間
井上 勝己会長
司会進行 千葉 康博幹事
歌  唱
 君が代、奉仕の理想
髙森 郁子ソングリーダー
来訪者紹介
卓  話  者 相模女子大学学長 谷崎 昭男氏
大阪イブニングR.C. 藤江 正謹会員
■会長の時間     井上 勝己会長
皆様こんにちは。
最近は、仕事が大変忙しくて、内心は「だいじょうぶかなあ」と、正直言って、とても慌てている状況です。ロータリーの活動の方でも頼りなく思われるところが出てくるかと思います。私の場合、企業の経営者ということよりも、一職人でございまして、自分一人でやらなければならないところが多々ございます。どうかご理解ご協力をお願いしたいと思います。
来月は、いよいよ師走となります。今年最後の12月の第4例会は、どうしても、私、出席できません。大橋副会長に、前もってお願いを致しましたところ、快くお引き受け頂きまして、本当に感謝しております。まずもって皆様方にご報告しておきます。
それでは、ご来訪者のご紹介を致します。
本日の卓話者でございます、相模女子大学・相模女子大学短期大学部学長・谷崎昭男先生でございます。本日は遠いところから本当にありがとうございます。お話、楽しみにしております。
続きまして、松田会員のご友人で、本妙寺のご住職・池上正示様です。池上様は、一昨年の当クラブの卓話者で「清正公と本妙寺」という演題でお話をしていただいております。2年ぶりのご来訪をいただき誠にありがとうございます。
続きまして、県外からのロータリアンお1人ご紹介いたします。大阪イブニングロータリークラブの会長エレクトでございます藤江正謹様です。本日は、遠いところから当クラブにご来訪をいただき、誠にありがとうございます。
特に、今日の卓話演題に関しては、素晴らしいお話をしていただけると思っております。楽しみにしていただき、最後までご清聴頂ければと思います。それでは、どうぞごゆっくりとお過ごしいただければと存じます。
当クラブでは県外からご来訪いただいたロータリアンの皆様に対しては、記念品として熊本の伝統工芸品の一つであります「出世コマ」を贈呈する慣例となっています。熊本クラブへのご来訪の記念として、お受け取りいただければと存じます。
それでは、会長の時間ということで、一言ご挨拶を致します。
まずご報告です。
先々週の金曜日、ロータリー情報委員会を、今週の水曜日、職業分類委員会を開催していただきました。それぞれの委員会の方針、経過報告等、小野委員長並びに長野委員長から詳細にご説明をいただきました。本当にありがとうございます。また委員の方々にもそれぞれの委員会の方針等についてご理解をいただいたうえで、積極的にそれぞれの事業活動にご協力いただいている様子をうかがい知ることができ、大変うれしく思いました。
その後の食事を含めた懇親会でも、熊本クラブの特長を活かしたお話をうかがうことができ、お一人おひとりが、良きムード中にロータリーライフを楽しんで頂いているようで、将来がまた大変楽しみだなと、そういう感想を持ちました。
また、昨日は、第2回目のゴルフコンペを親睦活動委員会の皆さん方にお世話をいただき開催をしていただきました。ご多用の中、ご参加いただいた会員の皆さんには深くお礼を申し上げます。
私、日中のゴルフには、所用のため参加できなかったのですが、夜の懇親会には出席させていただきました。ゴルフのお話はもちろんのこと、いろいろな話題について、お話をお聞きする機会をいただいたことはとてもありがたいことでございました。平素の何気ない対話(ディアローグ)がいかに大切かを感じます。中心になってお世話頂きました長下会員には心からお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。
二つ目です。
本日の卓話者・谷崎先生は、当クラブの松田敬吾会員のご紹介により、私たちのクラブに、本日の卓話の講師として来ていただきました。初冬のこの時期、日ごとに寒くなっていく中を、熊本まで遥々ご来訪いただき、大変うれしく存じます。本当にありがとうございます。
お時間がちょっとあるということでございますので、横道にそれるかもしれませんが、今日、谷崎先生に来ていただいた経緯について若干ご報告をさせて頂きます。
今日の卓話は「先師保田與重郎を語る」ということで、演題をいただいておりますが、保田與重郎先生が松田会員のオジサマということを私が知ったのは、吉村さんが会長された年度で、私が親睦活動の委員長をしているときでした。この年度、親睦を深めていただく機会の一つとして、海釣りを堤さんのご協力の中、企画をしたところ、その下見の海釣りに松田さん、野中さんにご参加いただきました。この時、幸運にも、とても大きなヒラメが釣れまして、このヒラメをどうしようかなということで、松田さんのご自宅にお邪魔することになりました。とても大きなヒラメでしたので、松田さんの奥様には、お料理に大変お手数をおかけしました。奥様のこの手料理でお酒を酌み交わす中、保田先生のご著書に、私が親しんでいる旨のお話をしたことがきっかけで、松田さんが、「井上さん、保田與重郎は、私のオジだよ」というお話をなさいました。その後、2階に上がられ、保田先生のいろいろな「書」あるいは「ご著書」また「お写真」等等をお見せ頂きました。私、その時とても感動いたしました。
このような経緯の中、本日、谷崎先生に当クラブに来ていただいた次第でございます。
保田先生のお話を是非、谷崎先生から直接皆様方に、特に若い方々に語り伝えて頂ければ、何かのお役に立つのではないかと思います。若い方々が、このご縁を大切にしていただければ嬉しい限りです。
本日は、皆様方大変お忙しいかと思いますが、谷崎先生のお話を、最後までご清聴をいただければと存じます。どうぞよろしくお願いいたします。
以上をもちまして、会長挨拶と致します。ありがとうございました。
入会2ヶ月以内会員紹介     千葉 康博幹事
廣川 昌哉会員(九州旅客鉄道(株))
大塚 竜二会員(東京海上日動火災保険(株))
片岡 朋章会員(㈱熊本県民テレビ)
池上 道夫会員(池上税理士本吉公認会計士事務所)
宮本 貫治会員(熊本製粉(株))
添島 義樹会員(添島歯科医院)

■出席報告
出席委員会


■幹事報告
千葉 康博幹事

・2013年12月のロータリーレート
1ドル=100円になります。
・第4回日台ロータリー親善会議のご案内
2014年1月26日(日)14:00~20:30
台湾(台北)圓山大飯店 12階
登録料 会員15,000円 御家族10,000円
・熊本中央ロータリークラブより第5回熊本中央ロータリークラブ チャリティゴルフコンペ参加の御礼並びに御報告
・12月1日(日)の清掃活動について
雨天決行 9:00AM 白川公園集合
◎来信案内
・九州財務局:九州財務局「講師派遣」のご案内
・熊本県国際協会:フィリピン中部における台風被害に対する義援金について
◎例会変更
・熊本菊南R.C. 12月25日(水)の例会は、年忘れ夜例会の為、12月26日(木)18:30~ 下通り「はや川」にて
・熊本水前寺公園R.C. 12月4日(水)の例会は、北里美知子会員手創り品 展示会見学の為、12月4日(水)13:00~ 島田美術館にて
12月18日(水)の例会は、クリスマス家族会の為、12月18日(水)18:30~
・熊本りんどうR.C. 12月19日(木)の例会は、家族例会の為、12月19日(木)19:00~ 阿蘇空港ホテルエミナースにて ※サイン受付は行いません。
12月26日(木)の例会は、定款第6条第1節に基づき取り止め ※サイン受付は行いません。

■委員会報告
親睦活動委員会長下 圭三委員

第2回井上杯ゴルフコンペ結果報告

■スマイルボックス
舩山 直人委員長

井上 勝己、大橋 善治、千葉 康博、中村 展教各会員  本日は、当クラブ卓話のために、遠方より相模女子大学・学長の谷崎昭男様にお越しいただきました。感謝と歓迎の念を込めまして、スマイルいたします。保田与重郎先生についてのお話、楽しみにしております。また、本妙寺のご住職、池上正示様にもご来訪いただいております。歓迎いたします。
岡本 悳也会員  谷崎昭男先生のご来訪を歓迎いたします。保田与重郎氏は仰ぎみる方ですがかねてより大変興味と関心をもってきました。本日は保田与重郎氏研究の第一人者である谷崎先生の卓話を拝聴できますことを大変楽しみにしております。
松田 敬吾会員  ①谷崎先生、本日は御多忙中わざわざおいで下さいまして有難う存じます。話を楽しみにしています。②池上さん、よくいらっしゃいました。③私事ですが、本日は偶然私の誕生日です。
小栗 宏夫会員  藤江様の再度のご来訪を歓迎してスマイルします。
副島 秀久会員  今週水曜日にシカゴよりJCI(国際的な病院機能評価)の認定を頂きました。先週金曜日まで5日間みっちり審査を受け5日目のスピード認証でした。しかもかなりの高得点で合格しました。これも、地域の方々や医療機関の皆さま、ロータリアンの皆様のおかげです。ありがとうございました。
小野 友道会員  ①済生会熊本病院が国際標準の病院機能評価JCIに合格しました。日本で7番目、西日本ではじめてです。副島院長、おめでとうございます。②「庭に一本なつめの金ちゃん」のお芝居、無事終わりました。ロータリー会員の皆様にも来て頂きました。感謝です。
大塚 竜二会員  昨日の井上会長杯ゴルフコンペに初出場で優勝させていただきましたのでスマイルさせていただきます。スコアは今ひとつですので、次回も練習して参加させて頂きます。
栗原 幸宏会員  昨日は会長杯コンペに参加させていただきました。アキレス腱もようやくくっつき、久しぶりのゴルフでした。中央CCの二人用カートに野中会員とご一緒させていただきましたが、野中さんのお人柄で大変楽しい一日でした。で、終わってみたら、また野中さんのおかげでブービー賞をいただき、感謝、感謝でスマイルさせていただきます。あっ、名誉のために…ニアピンも一ついただけました。
前原 健男会員  ①家内の誕生祝いのお花ありがとうございました。当日本人は旅行中で、電話でお花がとどいているよと伝えると、とても喜んでいました。②昨日の熊本ロータリークラブのゴルフ、少し寒かったけど楽しくプレーできて本当に良かったです。夜のエルドラードの会が一段と楽しかったです。井上会長も出席してもらって、皆さん学生時代のスポーツ等、腕自慢で話が盛りあがりました。また西村会員からは特別おいしい黒毛和牛のステーキを頂き、それがまたとろける様な素晴らしい味で、ありがとうございました。
河北 敏夫会員 今年もイイフウフ(11/22)の日に綺麗な胡蝶蘭をお届け戴きありがとうございました。家内は蘭を手にしたときは嬉しいと喜びますが、その後すぐに「また一つ歳を取ったのか」と宣いました。
大谷  均会員  家内の誕生日に、きれいな花を昨日、クラブからいただきました。お礼のスマイルをさせていただきます。
西村 浩二会員  九学ラグビー部の後輩達が夢を叶えてくれました。23年ぶり2度目の花園です。私の時代はかなり弱く、花園は夢のまた夢でした。後輩達に感謝してスマイルします。

■本日の卓話
卓話者紹介松田 敬吾会員


「先師保田與重郎を語る」
相模女子大学学長 谷崎 昭男氏


週報No.22 11月29日号

こんにちは。谷崎でございます。御招きをいただきまして、しかも先師について話をする機会をいただきまして大変ありがたく、また光栄に存じております。
今、松田さんからご紹介がありましたように、私、初めて京都の鳴滝の先生のお宅を訪ねましたのは、昭和42年の7月の終わりの頃で、私はその時23歳で、保田先生は、まだ還暦前でいらっしゃいました。先生は、昭和56年に71歳でお亡くなりでしたから、晩年の14年ほど親しく謦咳に接する幸運に恵まれました。
最も個人的なことでは、私の結婚にあたってお仲人をしていただきました。京都から東京までお出かけいただきまして、今でも恐縮する気持ちでおりますけれども、文学のことは勿論、いろいろなことを教えて頂きました。
保田先生にお目にかかることがなければ私の人生もまた変わったように思います。今、義仲寺というのは木曽義仲公の墓所で、松尾芭蕉翁が大阪で亡くなられる時の遺言が木曽殿の傍らに葬ってくれということで、お弟子さんが船で木曽川を上って伏見で降りて山を越えて、木曽義仲公の墓所の右側に亡骸を埋めた寺ですけれども、保田先生の分墓という言い方もありますけれど分骨してお墓もある所で、そこのところの管理のようなことを、お役目として引き受けていること、また落柿舎の保存会の理事を務めておりますのも全て保田先生のご縁に他ならない、そういう意味では、先ほども申しました通り、保田先生にお目にかかったことが、私の人生というのを今日(こんにち)のようにした、そんなふうに見ております。
保田先生は奈良の桜井の出身で、旧制の畝傍中学から旧制の大阪高等学校に進まれるんですね。大阪高等学校というのは大阪大学の前身ですが、保田先生が旧制の大阪高等学校を受験されるときは、当時の校長先生の思いつきというのか気まぐれというのか、入学試験の問題から数学を外したんですね。それで全国から数学嫌いが受験しに来た、そのせいかわかりませんが、非常に個性的な入学者があった時ですけれど、その秀才たちの中でもたとえば、ご存知の方、中国文学者で竹内好という方いらっしゃいましたけど、同期ですね、そのほかにも優秀な方がいた世代ですけれど、その中でも保田先生はまた抜きんでた才能で注目されました。大阪高等学校在学中に、今も出ています岩波書店の「思想」という雑誌が懸賞論文を募ったことがあるんですけれど、保田先生は、それに応募し入選を致しました。「思想」の古い当時の号に先生の論文も載っております。山上憶良の歌について考察を加えたような論文です。
その後、東京帝大の美学に進まれるんですけれど作品の依頼が来るようになって、まあ新進として認められて大学を卒業した頃は、誰もが才能を認める、そういう地位を獲得いたしました。出世作は、今日、持ってまいりましたけれど、「日本の橋」というエッセイで棟方志功の装丁です。棟方さんは、世界的な芸術家として認められるようになりましたけれど、まだほとんど無名な頃に棟方さんを知って棟方さんを世に出した一人が保田先生だというふうにいえるというのが私の考えです。棟方さんは本の装丁を随分されましたけれど、この「日本の橋」はそのごく初期のもっとも早い時期の装丁です。その後、保田先生は、関わりがある本が出るときに棟方さんの装丁というのを積極的に進められました。棟方さんが装丁家としても世に認められたのは、これも保田先生の力に負うところに多いという風に私は受け止めております。若くして文学賞を受賞致しますし、名声がどんどん上がっていくわけですね。
ところが、そのうちに戦争に入る。それからが先生がもっとも活躍された時期ですけれども、しかし、もっとも困難な時期ではあったろうと思います。先生の著作の意味というのはいろいろに捉えられますけれども、もっとも大きな一つは日本の文学の歴史に一つの系譜を打ち立てたということだろうと私は考えますし、先生にもそういう自負がありました。系譜というのは後鳥羽院を軸とする文学の歴史ということです。つまり先生がもっとも高く評価した文学者は松尾芭蕉ですけれども、芭蕉のああいう生き方、文学に対する姿勢というのは後鳥羽院の後をいくというそういう意識だというのは保田先生の文学論の根幹を成すものですね。
あるいは芭蕉よりもっと前にいけば西行という人がいましたけれど、これは後鳥羽院より前の人ですけれども西行という存在を思い浮かべると、西行が後鳥羽院につながって、それで後鳥羽院が芭蕉につながっていく。芭蕉というのは必ずしも勤皇家というのではないんですけれど、しかし、思いにあったのは後鳥羽院を始めとする天皇家の存在でしょうか。南北朝の話でいえば、南朝に芭蕉は親近の情を抱いていたということを含めて、そういう思いが日本の文学の根底にあって、それが日本の文学を成り立たせているものだというのが保田先生の考え方で、当然、保田先生もその系譜に連なるという意識をもって文章を書かれていた。
保田先生の言ってらっしゃることでたとえば、志を高く持て、そういうことを言ってらっしゃいますけれど、それはつまり、つまらない文学というか、あるいは低級な、低俗な文学に携わるよりも、超然として志を高く持って文学にいそしみなさいということですね。例えば江戸時代のことでいうと井原西鶴というのは誰もが知っている人ですけれど、保田先生は必ずしも井原西鶴は買わないんですね。井原西鶴ではなく、芭蕉を買う、そこに志を高く持つか否かの分かれ道がある。ですから保田先生から見ると松尾芭蕉に比べれば井原西鶴の志が低いということになるわけですけれど、そういう文学観というのは、話がいろいろ飛びますけれど、ただ飯を食うために、つまり原稿料を稼ぐために文学に、文学という仕事に携わっているのではない、というのが保田先生の自信でもありました。
先生は原稿料がない雑誌、同人雑誌を含めて、そういうところに文章を寄せるのを厭わない、そういう方でした。悠然として、だいたい文学の仕事というのはそれで生活するようなものではない、というのが保田先生の考え方で、そういう志の高さで文学をされていた。そこが多くの読者を得て、多くの人から尊敬されたとこだと思います。そういう面を置いて保田先生のことをうんぬんすることはできないだろうというふうに私は思います。
話を元に戻しますと、戦争に関わって、姿勢としては戦争を支持するというのが保田先生の立場でした。それは何も文学者として先生が特別だったということではなくて、有名な文学者を含めてみんな戦争を支持していたわけですけれども、戦争が敗戦に終わった後の文学者の態度というのか、生き方がですね、そこで他の文学者と大きな違いが出てきたというところを、どういうふうに考えるか。
戦争が終わると、先生は召集を受けると大陸に渡っていくんですけれど、命長らえて、戻って桜井の田舎に帰ってくる、文壇・論壇はこぞって戦争協力をしたと指弾をして作品の発表の場も失うような状況になるんですね。戦前よりも困難な時期と言えば困難な時期を迎えるんですけれど、保田先生は、それになんでしょうか、まったく動ずることがなく、そこでも志の高さをもって強く生き抜くんですね。
戦後の文学者の生き方というのは、大雑把にいえば、戦前の作品をなんでしょうか、人の目に触れないようにするといいましょうか、そういう生き方をみんなしている、つまり先ほど言いましたように、ほとんどの文学者はやはり戦争は支持していたんですね。そういう立場で物を書いていたのが、戦後になるとそれが都合が悪いといって自分で自分の作品を抹殺するような動き方をしました。例えば、戦後になって戦前の文章を1冊の本の中に収めようというようなときは、一部を書き換えて如何にも戦争に反対だったかのようなそんなポーズを見せるように改編をするというのが、多くの文学者の生き方でしたですけれども、保田先生は断じて自分に許さなかったんですね。戦後の文章というのは単行本の中に収めるときに、加筆したり、訂正するのは保田先生も当たり前のことようにやってらしたけど、こと戦前の自分の作品に関してはそれをしなかった。
これはなんとも保田先生の偉かったという感を私は、年々強くしております。どうして戦前の自分の文章に忠実に一字一句も改めないかというと、それは自分の文章を読んで亡くなっていった多くの人の心情を思うとね、かつての自分の文章を改めることなどできないという保田先生の思いでした。それだけで、また保田先生は偉いと思いますし、だいたい戦前戦後を通して一貫した人は少ないわけですけれども、その中でもまったく変えなかったというのは、おそらく保田先生ぐらいだろうというのが私のみるところです。
戦地には保田先生の本を持って行ったという若者が大変多かったときです。あるいは戦地で亡くなって帰ってきた遺品の中に先生の本があったという話もたくさん伝わっておりますし、それほどの大きな影響を若者に先生は与えた、それをよく知るから先生は一字一句改めなかったということですね。それがまた、他の文学者には面白くなかったということにもなるんですね。だからそれだけ余計にマスコミは戦後の保田先生を批判した。
それはまた、他の例でいうと画壇では藤田嗣治が似たようなことだと思います。藤田嗣治は、戦争画をたくさん描いておりますけれど、戦争画自体にもちろん価値はあるんですね。一番代表的な作品は「アッツ島の玉砕」という凄まじい絵がありますけれど、あれも単に戦争賛美しているという作品ではなくて、志を高く持って戦争そのものに迫っているような作品ですけれども、結局、画壇は藤田嗣治を日本から追い出すわけですね。追い出すというよりも勝手に藤田がフランスに行っちゃたということ、二度と再び日本に戻って来ないわけですけれど、結局、戦争画を描いた、戦争協力だといって藤田を批判した人たちの多くはその才能を嫉んでいたということだと私は思うんですね。
保田先生に対する世の中の凄まじい批判、普通の人ならへこたれるような批判も、根底には、保田與重郎に対する嫉妬があったというふうに私は考えておりますし、保田先生も自身でそういうふうに思われていた節もあります。しかしそういうことで保田先生は悪口を言った者の名前を言ったりすることもしない人でした。
私も、余談ですけれども、学問の世界にいくらか関与してますし、大学の運営にも携わっている、そういう中で時々感じることは、嫉妬ですよね。女性の嫉妬とは別に男の嫉妬は、これほどつまらないものはないと思うんですけれど、ストレートに出てこないだけに一番厄介なものだというのが日頃の私の感想なんですけど、それはともかくとして、保田先生の話に戻りますと保田先生の文章、今日、配布していただきましたけれど「日本に祈る」という戦後最初の単行本の序なんですけれど、これを読んで頂いてもわかるんですけれど、保田先生の文章というのは、今の言葉でいうと「人の心を元気にする」ようなそういうエネルギーに満ち溢れている、そこが保田先生の文学の最も大事なところだと思います。
文学とは何かと問うて、答えは色々あるんですけれども、私の判断の基準は「生き難い世を、生き抜く力を、それが与えてくれる文学が最高のものだ」というふうに思っております。そういうことでは保田先生の先生というのは佐藤春夫ですけれど、佐藤春夫の文学もそういう力を持っている。身内のことになりますけれど、谷崎潤一郎っていうのはそういう力に乏しいというのが私の受け止め方で、そういう観点からは、私は評価しないところもありますし、そういう観点から、潤一郎批判を書いたこともあります。そこが一番のところだと思うんですね。
先程戦争の話を致しましたけれども、戦争責任を保田先生は追及された、若者をたくさん死なせたってなことを言って批判する、保田先生はいわゆる公職追放の処分も受けておりますし、要するに最大の戦争責任者だというふうに戦後は遇されたわけですけども、保田先生が書いていらっしゃる中の一つに、「日本の歌」という短い文章があるんですね、先生が言っていらっしゃるのは、私の文章がたくさんの若者を死なせたのではない、大東亜開闢の精神が若者をそういうふうに死んでもいいというような境地に誘ったんだということを言ってらっしゃるけど、これもまた先生の文学を語る素晴らしい言葉だというふうに思うんですね。
つまり文学の高度のものは、人間という、あるいは人間界というかな、そういうところを去った、もっと神に結ばれたような、つまり人間臭さを去ったような、そういうものが大事であるという立場から、保田先生はそういう表現を心掛けている。革命という言葉を保田先生、若いころに使われた言葉ですけれど、保田先生が当時を顧みて言っている一つは、革命革命ということが言われたけれど私は革命的な文章は見たことがないって言ってらっしゃるんだけれど、私はそれこそ保田先生の文章は革命的なものだったと思うんですね。
つまり思想の立場を超えて人の心を鼓舞して生き難い世の中を生きていくそういう力を与える。もうずいぶん経ちますけれど羽田闘争という凄まじい反政府運動がありましたけれど、羽田闘争に加わった若い学生の中には保田先生の読者もたくさんいまして、保田先生の本を懐中にして闘争に加わっていたという話もありますし、右翼、左翼という何か通り一遍のレッテルを貼ることで事を済ませようとする、そういう安易な、それこそ志の低い、そういう在り方を自らの文学で壊したというか、そういう人だったというふうに思います。
ですから文学というのは、思想を語るわけでもなし、何かお説教するわけでもないし、人間が生きている根源のものに繋がりながら人が生きる、その気力を与える、そこに先生の文章の真実があったというふうに思います。
保田先生というのは、必ずしも完成ということを求めたわけではなくて、自分がしたりなかったことは後世のまた志ある人が受け継いでいってくれるだろう、そういう思いで作品を作っていた、そういうところも多くの若者の心をひいた部分だろうと思っております。
いずれにしても「語る」なんてタイトルにしていただきましたけれど、私の話なんかよりも、誰かの解説書によるよりも、先生の文章を読んで頂くというのが一番の早道ですので、今も新学社から保田與重郎文庫といって、文庫本になった著作がたくさんありますので、もしよろしければお求めいただいて、私が今日舌足らずで申しあげましたことを、それに則してお考えいただければありがたいと思います。
なんかまとまらない話で申し訳ありませんけれど、本日はありがとうございました。

次回の卓話
12月6日 「中学生弁論大会表彰式」
12月13日 「故松本唯一先生の横顔」
     ㈲舒文堂河島書店代表取締役
     (熊本グリーンRC)
     河島 一夫氏
12月20日 「日本のあるべき すがた」
     九州電力株式会社相談役 松尾 新吾氏
12月27日 「2013年10大ニュース」
     熊本日日新聞社論説委員長 田端 洋昭氏
1月3日 休会
1月10日 例会変更(1月8日(水)熊本市域RC新春合同例会)


職業分類委員会
平成25年11月27日(水)
於 田吾作


週報No.22 11月29日号


ロータリー家族清掃活動
平成25年12月1日(日)

週報No.22 11月29日号

週報No.22 11月29日号

週報No.22 11月29日号




クラブ行事
12月20日(金)「年忘れ家族会」
     18:30~ 熊本ホテルキャッスル2階「キャッスルホール」
市域・地区行事
12月1日(日)「ロータリー家族清掃活動」
     9:00集合 11:00解散予定
     白川公園集合
     熊本市下通りアーケード周辺
     清掃後は辛島公園にて解散
12月8日(日)「2013~2014年度 国際ロータリー第2720地区創造的奉仕プロジェクト部門セミナー」
     13:00~
     学校法人銀杏学園熊本保健科学大学
     講義室1300Lホール
1月8日(水)「熊本市域RC新春合同例会」
     合同例会 12:30~
     懇親会 13:00~14:00
     ホテル日航熊本 5F「阿蘇」
熊本火の国ローターアクトクラブ
12月例会 熊本市中央公民館(第2、4(火))
12月10日(火)20:00~
12月24日(火)20:00~
地区行事
鎮西高校インターアクトクラブ


《今週の会報担当  秋吉 健司会員》



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